泉 鏡花・泉 鏡太郎

左の窓

今年四月二十九日、新橋發、汽車は午前六時半なれども、三十日を前に控へたれば、未だ夜の明けぬに出立つ。夜逃の體に似たるかな。旅馴れぬ身のしをらしくも心急きたるなり。柳の翠ほのぼのと、丸の内を馳らすれば、朝靄のやゝ動くが、車の轍にまとひ、薄綿の大路靜に、停車場に着く。

あわたゞしき漢の習とて、待つ間もどかしく、とかくして汽車に乘れば、瞬く間に品川なり。

驛路や茶屋の柳の朝ぼらけ

 と同行の喜多八、句にもあらず我にもあらず呟く。電車の通ふ品川を驛路といふも旅の心なるべし。彌次はたゞ窓より顏を差出して、左手の海を視めしが、あけ行く漣の、旭に對して、後朝の風情ならなくに、我が顏あまりに寢惚けたり。

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