浅沼 稲次郎・日本経済新聞社

私の履歴書

わが生まれ故郷三宅島は大島、八丈島などとともに近世の流罪人の島として有名である。わたくしは先祖をたずねられると『大方流罪人の子孫だろう』と答えているが、事実、三宅島の歴史をみると遠くは天武天皇三年(皇紀一三三六年)三位麻積王の子を伊豆七島に流すと古書にある。島には有名流罪人の史跡が多い。三宅島という名の由来も養老三年(皇紀一三七九年)に、多治見三宅麿がこの島に流されてから三宅島と名づけられたといわれている。わたくしが子供のころ、三宅島の伊ヶ谷にはこれらの流罪人を入れた牢屋がまだ残っていた。三宅島の流罪人名士をあげると竹内式部、山県大弐の勤王学者、絵師英一蝶、「絵島生島」の生島新五郎、侠客小金井小次郎など多士多彩だ。しかしこれらの流罪名士の中の英雄はなんといっても源為朝であろう。わたくしの友人で郷土史研究家の浅沼悦太郎君が『キミが国会で力闘しているのは為朝の血を引いているからだ』といっていたが、現代の為朝にみられてちょっとくすぐったかった。島の文化は流罪人から非常な影響を受けたことは事実で、父も流人の漢学の素養のある人から日本外史、十八史略などを教えられたそうだ。私は母とともに十三歳までこの三宅島で暮した。三宅島時代で最も印象に残っているのは、小学校の五、六年ごろと思うが、断崖にかけてある樋を渡って母にしかられた思い出だ。三宅島は火山島で水に不便だ。清水を部落までひく樋がよく谷間にかかっている。私の渡った樋は高さ数十丈、長さ十丈ぐらいの谷間にかけられたもので、学校友だちと泳ぎに行った帰りに、『あの樋を渡れるかい』とけしかけられて渡った。一緒にいた従兄の井口知一君が最初に渡ったもの

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