吉井 勇

酔狂録

序

またしても恋物語である。しかしその物語の主人公は私ではない。

それはもう今から七八年前の或る冬の夜のことであつた。私はその時分毎晩のやうに銀座界隈の酒場歩きをやつてゐたので、その夜ももうかなり遅く、尾張町の角のところにある、或る大きな、天井に近い高い壁から時時造りものの獅子が首を出して吼える仕掛けになつてゐるカフヱーで、頻にウヰスキーの杯を傾けてゐた。

私もその晩かなり酔つてゐたがそこの酒場に集まつてゐる人達は一人として酔つてゐないものはなかつた。酒の匂ひや莨の煙がむつと噎せかへる位立ちこめてゐて、コツプの落ちて壊れる音やナイフやフオークの触れ合ふ響きが、酒に荒んだ人の心を、いやが上にも苛苛させるやうに聴こえて来た。家の中は暖炉が熾に燃えてゐるので、むしろ顔が火照る位熱かつたが、外は霙まじりの雨が振り頻つてゐるので、入口の硝子扉が開く度毎に、冷たい湿つた風が用捨なく吹き込んで来て、折角帰り懸けてゐる人の足を留めた。私も幾度か帰らうとしては、外の寒さを思ふと何となく逡巡はれて、また新しい杯を命じないではゐられないのだつた。

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