橘 外男
グリュックスブルグ王室異聞
はしがき
「その時わたくしは、下町のフォーゲル街で父の遺した家に母と暮していましたが、四月初め頃のある朝、……まだ日陰には雪が残って、その中から……ミルザの花が咲いていましたから、三月末頃だったかも、知れません。ある朝事務所の前に、すばらしいイスパノスイザの高級車が停まって、頬髭いかめしい年輩の執事が訪れて来ました。中央公園のドラーゲ公爵家から来たものだが、お願いしたいことがあって、大奥様がお待ちになっていらっしゃるから、すぐ御足労願われまいかという、口上だったのです」
とイングリード・アイネス嬢は、話し出した。……というところから書き出すと、簡単なのだが、それでは何のことやら読者には、わからない。そこで、イングリード・アイネス嬢とは、いかなる婦人ぞや! ということを、初めに申し上げておくことにしよう。
今から三十年ばかり前、一九二四、五年代に、聖林で一代の天才とうたわれた、アスタ・ニールゼンという名女優を、読者は御記憶であろうか? この女優は独逸の生まれであるが、その名の示すごとく丁抹の人である。