伊庭 心猿
荷風翁の発句
遠みちも夜寒になりぬ川向う
「川向う」は隅田川東岸である。即ち、寺島町玉の井の遊里を指す。さうすると、この作は對岸淺草側からの吟でなければならぬ。但し「遠みち」が直ちにその淺草からの道のりを意味するものと解せば、句の趣は甚だ削減される。第一、つい川一跨ぎの墨東の散歩を遠路とするのは、少しばかり表現の的確を缺く。そこで、この句を理解するためには、どうしても初五に關する若干の註が必要となつてくる。さもないと、後世とんだ駄句の一つに數へられる虞があるからである。
翁の玉の井見物は、昭和十一年の春にはじまる。同年五月十六日の日記に曰く。
初て玉の井の路地を歩みたりしは昭和七年の正月堀切四ツ木の放水路提防を歩みし歸り道なり。其時には道不案内にてどの邊が一部やら二部やら方角更にわからざりしが先月來屡散歩し忘備のため略圖をつくり置きたり。路地内の小家は内に入りて見れば……。