小川 未明

忘れられたる感情

もはや記憶から、消えてしまった子供の時分の感情がある。また、或時分に、ある事件によって、自分の心を占領したことのあった、忘れられた感覚がある。また、偶然にふら/\と頭の中に顔を出して、はっと思ってその気分を意識しようとする刹那には、もう、其の顔が隠れてしまって、たゞ、単調な連続的の感情に頭が占領せられているのを意識するばかりである。

これを要するに、たゞ、吾等には、幾何の忘れられた感覚や、感情や、知覚があるということを知らなければならない。また、幾何のまさに忘れられんとしている感覚や、感情や、知覚のあることを知らなければならない。而して、現在の自分の頭を占領している感情や、感覚のみが、子供の時分から変りのない、つゞいて来た感情や、感覚であると思うことが出来ない。人間は其の時々の境遇によって、頭の中を占領する感情や感覚が異っている。だから今、かりに自分の頭には灰色な、重苦しい感情しかないからといって、この気分で見るすべてのものが、今は、眼底に灰色なものとなってうつるからといって此の世界が灰色であり、此の人生が灰色でなければならぬと思うものは少なかろうと思う。

曾て、子供の時分には、此の世界をもっと明るく、また赤い色に見たことがあったかも知れない。また、過去の或日に於て、或る時、ある事件に出遇った場合に、自分の心は、いま迄で経験したことのない、また其の後にも経験したことのない、一種の言い現わし難い重苦しい気分によって、占領せられたことがあったであろう。其の刹那、此の人生を、此の世界を、すべてあらゆるものが此の気分に沈んだ眼底には黒い色に見られたことがあったかも知れない。

多くの場合

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