犬養 健

亜剌比亜人エルアフイ

一

マラソン競走の優勝者、仏蘭西領アルジェリイ生れのエルアフイは少しばかり跛足を引きながら地下室の浴場に入つた。

一九二八年八月五日の夕暮であつた。そこはアムステルダム市外にあるオリンピック競技場に附属した浴場だ。八月とはいふものの、北欧のことであるから、アフリカの沙漠に育つた彼はすでに膚に秋を感じてゐた。午後の三時から二十六哩四分ノ一のマラソンコースを馳けとほした後で、空いろに赤い鶏を染め出した仏蘭西国代表選手のジャケットを脱ぐと、エルアフイはやはり幻覚を感じるほど疲れてゐた。大観衆の叫び声のなかで、彼の胸の赤い鶏に向つて前方から突進して来たやうに見えた真白な決勝点のテープ――これが今もなほ浴場の壁にはげしく上下に揺れて見えた。

彼は不意に耳をそばだてた。

青空文庫の作品カード