田中 貢太郎
一握の髪の毛
章一は目黒駅へ往く時間が迫って来たので急いで著更えをしていた。婦人雑誌の訪問記者をしている章一は、丸ビルの四階にある編輯室へ毎日一回は必らず顔を出すことになっていて、それを実行しないと編輯長の機嫌の悪いことを知っていながら三日も往っていなかった。章一の幸福に満ちたたとえば風船玉のふわりふわりと飛んでいるような頭の一方の隅には、編輯長の怒りに対する恐れが黒い影となって泥んでいた。それに昨年あたりからヒステリーのようになっている細君のことも影を曳いていた。
「待っているのでしょ、彼奴が」
冷たい嘲を含んだ声が顫を帯びて聞えて来た。彼の女と目黒駅で待ちあわして蒲田線の沿線に在る旅館へ往くことになっている章一はぎくとしたが、しかし、家にばかりいる者がこんな秘密を知ろうはずがなかった。
「何云ってるのだ、痴、この忙がしいのに遊んでいられるか」