田中 貢太郎
春心
※(ローマ数字1、1-13-21)
広巳は品川の方からふらふらと歩いて来た。東海道になったその街には晩春の微陽が射していた。それは午近い比であった。右側の民家の背景になった丘の上から、左側の品川の海へかけて煙のような靄が和んでいて、生暖かな物悩ましい日であった。左側の川崎屋の入口には、厨夫らしい壮い男と酌婦らしい島田の女が立って笑いあっていたが、厨夫らしい壮い男はその時広巳の姿を見つけた。二十五六の痩せてはいるが骨格のがっしりした、眉の濃い浅黒い顔が酒を飲んでいるために※(「酉+它」、第4水準2-90-34)く沈んでいるのを閃と見たが、気もちの悪いものでも見たと云うようにしてすぐ眼をそらした。対手の態度によって島田の女も小さな河豚のような眼をやったが、これも気もちの悪い物でも見たと云うようにして、すぐ眼を反らして対手の視線を追いながら嘲るような笑いを見せあった。
広巳はのそりとその前を通りすぎた。川崎屋をすこし離れたところの並びの側に空地があって、そこには簀につけた海苔を並べて乾してあった。空地の前には鉛色をした潮が脹らんでいて、風でも吹けばどぶりと陸の方へ崩れて来そうに見えていた。縁には咲き残りの菜種の花があり、遥か沖には二つの白帆が靄の中にぼやけていた。空地に向った右側は魚屋になって、店には鮟鱇を釣し、台板の上には小鯛、海老、蟹。入口には蛤仔や文蛤の笊を置いてあった。そこには藻のむれるような海岸特有の匂があった。
広巳はふと何か考えこんだ。七八人の少年がどこからか出て来た。玩具の洋刀を持ち海老しびの竹屑を持った少年の群は、そこで戦ごっこをはじめた。