岸田 国士
ある親子の問答(一幕)
山上のホテル――食堂のベランダ、夏のをはり――午後九時頃。
テーブルに、青年とその母が向ひ合つてゐる。
青年 もうおやすみになつたら如何です。だいぶん冷えて来ました。母 こんなに晴れた空を見るのは久しぶりだね。――寝るのが惜しいやうだ。青年 僕は少し考へごとがあるんですから、しばらく一人きりにして下さい。――お部屋からでも空は見えるでせう。母 そんなにいつまでも空を見てゐる気はないよ。寝るのは惜しいといつたのは、かうしてお前と二人きりでゐるのも、さう長いことぢやないと思つたからさ。青年 さういふことをおつしやるもんぢやありません。――お母さんが、いつも不用意に口になさるお言葉を、僕は繰返し繰返し考へるんですよ。さうすると、始めは意味のない言葉が、僕の頭の中で、だんだん大きな意味をもち出すんです。何時かも、お母さんは、僕の目が死んだお父さんの目に似て来たつておつしやつたでせう。なるほど、それはさうかも知れません。子が親に似るのは当り前ですもの。だからつて、それを故さら、不思議なことのやうにおつしやる必要はないでせう。僕は、なんのために、お母さんがさういふやうなことを口に出しておつしやるのか、わからなかつたんです。考へれば考へるほどわからなくなります。しかし、たうとう、それに理窟をつけてしまふんです。さうすると安心ができるかといへば、それはさうでなく、その時から、僕の心の底に、なんだか重いもの――例へば大きな不安の塊のやうなものができるんです。母 お前はなんでもないことをむつかしく考へるからいけないの。青年 なんでもないことですか、それが……?
長い沈黙。