吉川 英治

治郎吉格子

立つ秋

湯槽のなかに眼を閉じていても、世間のうごきはおよそわかる――。ふた月も病人を装って辛抱していたこの有馬の湯治場から、世間の陽あたりへ歩き出せば、すぐにあしのつくというくらいな寸法は、なにも、気がつかずに立った治郎吉ではなかった。

素袷の肌ごこちや、女あそびを思わせる初秋の風は、やたらに、治郎吉を退屈の殻から唆った。

――で、無性に、あぶない世間が恋しくなって、有馬の槌屋を立ったのが七十日ぶりの爽やかな秋の朝で、湯治中すっかり馴染になった湯女のお仙が、彼の振分を持って、坐頭谷まで送ってくれた。

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