太宰 治

大恩は語らず

先日、婦人公論のNさんがおいでになつて、「どうも、たいへん、つまらないお願ひで、いけませんが、」と言ひ、恩讐記といふテエマで數枚書いてくれないか、とおつしやつた。「おんしうき。恩と讐ですか。」と私は、指先で机の上に、その恩といふ字と、讐といふ字を書いて、Nさんに問ひただした。Nさんは卒直な、さつぱりした氣象のおかたであつた。「さうです。どうも、あまりいいテエマぢや無いと、私も思ふのです。手紙でお願ひしたら、あなたは、きつとお斷りになるだらうと思ひましたから、ですから、私がけふお宅へお願ひにあがつたのです。恩は、ともかく、讐なんて、あまり氣持のよいものでは無いのですから、テエマにあまり拘泥せず、子供の頃、誰かに毆られて、くやしかつたとか、そんな事でもお書きになつて下さつたら、いいのです。」

私には、Nさんの親切は、よくわかるのだが、内々、やり切れない氣持であつた。とにかく、斷るより他は無いと思つた。「私には、書くことはありません。恩といへば、小さい時から、もう恩だらけで、いまでも、一日も忘れられない恩人が、十人以上もありますし、一々お名前を擧げて言ふのも、水くさくて、かへつて失禮でせうし、『大恩は語らず』といふ言葉のとほり、私は今では、あまり口に出して言ひたくないのです。復讐感の方は、一つもありません。癪にさはつたら、その場で言つてしまふ事にしてゐます。」

以前、私は恩を感じてゐるお方たちに、感じてゐるままに、「恩」といふ言葉を使つて言つて、かへつてそのお方達や、またその周圍の人たちに誤解されてしまつた事があるのだ。めつたに、口に出して言へる言葉でないやうである。

「それでいいの

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