牧野 信一
その日のこと〔『少年』〕
たゞぼんやりと――自分は安倍さんの顔を瞶めた、必ずや自分の顔も安倍さんと同じやうに蒼然と変つてゐたに違ひない――大正十年三月五日午後二時十分――ちよつと自分はテーブルを離れて、どこだつたか歩いてゐた、さうしてテーブルのところへ帰らうとして、ストーブの前へ来た時、向方から慌しく駆けて来た安倍さんが、
「アツ……君々、大井君が死んだとさ……」
「えツ?」まさか、そんなことはあるまい、――と自分は思つた。
「青山へ電話をかけて、直ぐに行かう……」
牧野 信一
たゞぼんやりと――自分は安倍さんの顔を瞶めた、必ずや自分の顔も安倍さんと同じやうに蒼然と変つてゐたに違ひない――大正十年三月五日午後二時十分――ちよつと自分はテーブルを離れて、どこだつたか歩いてゐた、さうしてテーブルのところへ帰らうとして、ストーブの前へ来た時、向方から慌しく駆けて来た安倍さんが、
「アツ……君々、大井君が死んだとさ……」
「えツ?」まさか、そんなことはあるまい、――と自分は思つた。
「青山へ電話をかけて、直ぐに行かう……」