牧野 信一
朝居の話
去年の十二月のはぢめ頃だつた。
あたゝかく、風のない朝、十時時分、僕は蜜柑山の芝のスロウプに腰かけて、海を眺めてゐると、絵かきの朝居閑太郎が、僕の妻に案内されて、僕の前に立ち、情熱のこもつた息苦し気な調子で、そして対者に遠慮する微笑を浮べて「エカキが――」と云つた。続く言葉は解つてゐるのだが、息せき切つて駆けつけた伝令兵のやうに声が出ないといふ風なのである。そして、漸く発言した。……「エカキが長い間絵具を持たぬと、キチガヒになるとかと……」
僕は閑太郎の眼を見て点頭き「閑太郎――」と唸り……そして妻に、吾々を得意とする町の文房具店に命じて閑太郎が望むがまゝの上等絵具をとつて呉れ――と云ふと、妻は、僕の肩からガウンを脱ぎとり、それにくるまり、何時も僕がするやうに、下のキヤベツ畑まで、「橇滑り」で滑り降り、村長の家へ電話をかけに行つた。
「それは好いね。」