牧野 信一
大音寺君!
いつも僕は野球の期節になると何よりも先に屹度大音寺君のことを思ひ出す。早稲田の岸、谷口、加藤等の頃だつたから今から十余年も前のことだ。僕は余り教室へ出ることを好まない文科の学生で、いつも独り法師で、大してフアンといふ程の者でもなかつたのだが、天気が好いと運動場へ来てぼんやりと、選手の練習を何時迄でも見物してゐるのが慣ひであつた。
その日も僕はガランとしたスタンドで、当時「逆モウシヨン」とかいふ業で問題を起してゐた谷口投手の練習振りなどを眺めてゐると、いつの間に僕の傍らに現れたのか気づきもしなかつたのだが、一人の見るからに逞ましい図体の鬚武者の学生がむしや/\と弁当の飯を頬張りながら(妙なことを僕ははつきりと覚へてゐるのだが、彼の弁当は大きな握飯で左手に竹皮包みを載せ、懐ろは書物ではち切れるようであつた――)、
「おい君、君は何科だ。」と憤つた様な調子で言葉を掛けた。彼は時折り選手に向つて非常な大声で声援を送つてゐたのを僕はさつきから気づいてゐたのだが、僕は余り白々しい顔で見物してゐたので何か非難でもされるのぢやないかしらと思つたのだ。
「俺は政経二年の大音寺虎雄つてんだが……」「俺か?」と僕も負けん気で、俺! と云つてやつた。「俺は文科一年だ。」