牧野 信一

湖の夢

一

友人である医学士のF君が、オースチンを購入したので、案内車を先に立てながら富士の五湖をまはつて来ようと、或る晩わたしの部屋を訪れた。神経科の専攻であるF君は、かねがねわたしの病状については深い留意を払ひ、年来にわたつて投薬をつゞけてゐて呉れる人であつた。ともかく文字のことは忘れるんだね、花をつくることをすゝめるよ――F君は切りとさう云つて、然し酒は寧ろ結構だと寛大であつた。だからわたしは、F君とだけはいつも平気で飲み、F君に救けられて帰る晩が多かつた。F君は、職業柄決して酩酊が適はぬと滾し、わたしの忽ちなる陶酔状態を羨ましがつたが、わたしにして見ると、容易に酔はぬといふ大酒家の方が豪傑めいてゐて頼もしく、羨望のかぎりであり、どうかして自分も紳士的なる酒の片鱗でも望みたいと思はぬことはなかつたが、いつもわたしは時と場所の差別もなく駄目であつた。

わたしは、いつにも爽やかな游山とか、ドライヴとかの暇もなく、胸のうちでばかり憧れる風景の香りにばかり酔つてゐるといふやうな折からだつたので、F君の誘ひは何よりも嬉しく、彼が未だ言葉も云ひ終らぬうちに、もはやほのぼのと眼を霞めて非常に賛成した。では今宵は、ゆつくりと眠つて、翌朝は五時の出発といふ約束でF君にわかれ、わたしは目醒時計を四時にかけて、うとうとゝすると、湖のすがたが浮びあがつたりして、直ぐに眼が醒めるのであつた。……竹籔の蔭の井戸傍に木蓮とコヾメ桜の老樹が枝を張り、野天風呂の火が、風呂番の娘の横顔を照してゐた。囲炉裏のまはりには湖で獲れる魚(あのころわたしは魚が嫌ひだつたので名前も覚えてはゐない。あれは本栖村であつたか? と考

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