牧野 信一

文学的自叙伝

父親からの迎へが来次第、アメリカへ渡るといふ覚悟を持たせられてゐて、私は小学校へ入る前後からカトリツク教会のケラアといふ先生に日常会話を習ひはじめてゐた。先生は日本語が殆んど不可能で、はじめは随分困つたが、オルガンなどを教はつてゐるうちに私の英語と先生の日本語は略同程度にすすんだ。私は祖父から教会にあるやうな立派な燭台やストツプのついたオルガンを買つて貰ひ、母親の琴と、六段や春雨を合奏した。電灯が点いて間もない頃だつたが祖父は電気を怕がつて、行灯の傍らで独酌しながら私達の合奏を聴き、酔が回つて来る時分になると、屹度、ほツほツほツとわらふやうな声で泣いた。父親を知らぬ孫の巧みなオルガンの弾奏振りに感激するのであつた。ケラア先生は折々バイオリンを携へて私達を訪れた。祖父は鎖国思想の反キリスト教論者であつたが、そんな晩にはアメリカの息子が贈つて寄越したオイル・ラムプのシヤンデリアを燭して、最も簡単な意見を交換した。大体私が通訳官であつた。――私の父親は中学の課程からボストンに生活し、学生時代を終るとどういふわけで、また何んな程度の位置か知らなかつたが、電信技手となつて U. S. N. Stuckton なる水雷艇に乗つてゐた。造船所にも務めた。父の先輩や友人が乗つてゐる軍艦や汽船が横浜に着くといふ通知を受けると、山高帽子で紋付の羽織を着た祖父と私は人力車で国府津に出て汽車に乗つた。その度毎に私は父からの届物であるといふ洋服や時計や望遠鏡や物語本などを貰つた。私はいつの間にか、少年雑誌のセント・ニコラスや、ニユーヨーク・タイムスのハツピーフリガン漫画などを笑ひながら読めるやうになつて

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