牧野 信一
浪曼的時評
先月は殆んど一ト月、新緑の中の海辺や山の温泉につかつて文字といふ文字は何ひとつ目にもせず蝶々などを追ひかけて暮し、その間に何か際立つた作品が現れてゐたかも知れないが、それまでは今年になつてからといふものわたしは、その読後感を誌す目的で毎月つゞけて月々の多くの雑誌を読んで来た。大体可もなく不可もなく、純文学派に多分の通俗的脈絡が鮮明になつてゐるようであり、単に文字の扱ひ振りや修飾の度合に依つて文学的形式を保たうとするが如きものも見享けられるのであるが、要するに作品のおもしろさなどゝいふものは至極簡明なものに違ひなく、作家自身の主観上の芸術的燃焼と創作形式との適度なる合致に帰着すべきが理の当然であり、如何に高邁なる精神の発揚であらうとも難解に過ぎたならば多くの読者に理解される気遣ひもなし、また如何に大きな舞台を取材となし、万華なる物語の組立が積み重ねてあらうとも、作者なる「私」の呼吸がいはれもなく通俗的であつたならば、読者の真の興味はつなぎ得ぬであらう。斯んなことは誰しも解つて居る事柄であつても、理窟通りには容易に運ばれぬのが、つまりこの場合に於いては文学の妙であり、どうしたつて作者たるものは徹底的に自己内心の奥底へ向つての凝視を保ち、結果としての無辺なる大呼吸へ達すべきが道理であるだけだ。それ故、誰の何ういふ方法を批難するわけでもなく、いちいちの作品についての或る程度の好しあしを云ふ位ひ安易なことはなからうと思はれる。云はるゝものゝ不満もさることなから、云ふものゝ貪婪さも自ら胸の充される気遣ひはないのである。小説も批評も凡人の場合に於いては元より職業としては不向なものであり、それ