牧野 信一

爪

寒い晩だつた。密閉した室で、赫々と火を起した火鉢に凭つて、彼は坐つて居た。未だ宵のうちなのに周囲には、寂として声がなかつた。

彼は二三日前から病気と称して引籠つて居た。別に、どこがどう、といふのではなかつたが、それからそれへ眠り続けた勢か、頭は恰でボール箱の如くに空漠として、その上重苦しい酒の酔が錆び付いてるやうで、起きる決心が付かなかつたのである。焦れぬいてゐるのだつたが、頭は容易に自分のものに返らなかつた。尤も彼には、こんなことは応々の事で、一寸とした新鮮な感じに行き当りさへすれば、ひよいと治るのであつた。

室には煙草の煙りが蒸せ反る程詰まつて居る。午迄眠つて、残りの半日を煙草と濃い珈琲とばかりで暮してしまつたので一層ぼんやりして居た。――それでも彼は手から煙草を離さうとはしなかつた。金魚のやうに、ぷかぷかと煙を吸つては吹いて居る。

彼は早く治りたい、と焦れるより他何にも考へては居なかつた。ごろり寝転んだり、又坐つたりしてゐる。時々大きな声で出任せな唄を発した。つい無意識に余り馬鹿馬鹿しい文句を吐いたのに気が付くと急に可笑しくなつて、ひとりで笑ひ出しさうになつたりした。

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