牧野 信一

失題

一刻も早く家へ帰り度い気持と、それとは反対に、どこかへ行つて見度いといふ気持――がその二つの心にのみ面接してゐたといふ程ではなく、ただその朧ろげな二つの気持を「空漠」とした白さが濡紙のやうにフワリと覆つて、つまり彼はその三つの心を蔵して歩いてゐた。而も彼は家路へは逆に歩いてゐた。――。

(その宵に限つた事ではない。一度外出して、帰路に着かうとする時はいつも同じやうに起る近頃の彼の気持である。以下もこれに準ずべきものである。)

――その事が更に彼を不機嫌にする。帰らない所を見ると(自分は「ペッ」と歩道に唾を吐いた程焦々してゐながらも)、彼の大嫌ひな白い気持が一番大きく彼の心を支配してゐる事は明瞭ではある。

「――ところで?」と彼は何気なく呟いた。余りに無稽な妄想で、彼は自分ながら可笑しくなつた。彼は、その独言で、勝手にテレて――さうしてまた彼はそのテレた気持を回復しようと努める為に、稍暫く絵葉書屋の前に立つて、ヨソメには如何にも熱心な絵葉書の愛好者であるが如く見ゆる程、凝と絵葉書を眺めた。

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