牧野 信一

熱海へ

彼は徳利を倒にして、細君の顔を見返つた。

「未だ!」周子はわざとらしく眼を丸くした。

「早く! それでもうお終ひだ。」特別な事情がある為に、それで余計に飲むのだ、と察しられたりしてはつらかつたので、彼は殊更に放胆らしく「馬鹿に今晩は寒いな。さつぱり暖まらないや。」と附け足した。だが事実はもう余程酔つてゐたので、嘘でもそんな言葉を吐いて見ると、心もそれに伴れて、もつと何か徒らなことでも云つて見たい気がした。だけど、母も周子も、手際よく顔付きだけはごまかしては居たが――それは一層彼にしては堪らない同情のされ方で、普段ならばもう大概母が断わる頃なのにも関はらず、

「全く今晩は寒い、ひよつとすると雪かも知れない。」などゝ云ひ乍ら母は酒の燗をした。

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