近松 秋江
雪の日
あまり暖いので、翌日は雨かと思って寝たが、朝になってみると、珍らしくも一面の銀世界である。鵞鳥の羽毛を千切って落すかと思うようなのが静かに音をも立てず落ちている。
私はこういう日には心がいつになく落着く。そうして勤めのない者も仕合せだなと思うことがある。私たちは門を閉めて今日は打寛いで、置炬燵に差向かった。そうしてこういう話をした。
「お前は何かね、私とこうしていっしょになる前に、本当に自分の方から思っていたというような男があったかね」
「ええそれはないことはありませんでした。本当に私がお嫁に行くんなら、あんな人の処に行きたいと思ったのが一人ありました。それがしばしば小説なんかに言ってある初恋というんでしょう。それは一人ありましたよ。あったといってどうもしやしない。それこそただ腹の中で思っていただけですが、あんな罪もなく思ってたようなことは、あれっきりありませんね。ちょうどあの、それ一葉女史の書いた『十三夜』という小説の中に、お関という女が録之助という車夫になっている、幼馴染みの煙草屋の息子と出会すところがあるでしょう、ちょっとあれみたようなものです。