中谷 宇吉郎

線香の火

昔、寺田(寅彦)先生が、よく「線香の火を消さないように」という言葉を使われた。

大学を新しく卒業して、地方の中学校即ち今の高等学校などへ赴任する学生が、先生のところへ暇乞いに行くと、先生はどういうところへ行っても、研究だけは続けなさいと諭された。「地方の学校へ行くと、研究の設備などは、もちろん少いだろう。研究費だってほとんどないだろうが、その気さえあれば、研究は出来るものですよ。設備や金がなくても出来る研究というものも、ありますよ。一番いけないのは、研究を中絶することなんだ。何でもいいからとにかく手を着けて、研究を続けることが大切です。一度線香の火を消したら駄目ですよ」

特別に優れた人たちのことは別として、普通の意味での秀才でかつ真面目な学生だった人が、いつの間にか、学問の世界から離れて行ってしまう場合がよくある。ところが大学時代は平凡な学生で、卒業後も十年くらいはほとんど噂に上らなかった人が、案外にいい研究者として、次第に学界の表面に出て来るような場合もある。

そういう場合に、その原因とか、理由とかいうものを考えても、結論は出るはずがない。一々の場合について、条件は皆ちがうからである。運ももちろんあろうし、本人の本当の能力が、時とともに現われて来る場合もあろう。しかし千差万別の条件の差を超越して、普遍的に言えることが少くも一つはあるように思われる。それは、研究者として成熟した人は、線香の火を消さなかった人である。

青空文庫の作品カード