永井 荷風・永井 壮吉
断腸亭日乗
荷風歳四十
例によつて為す事もなし。午の頃家の内暖くなるを待ちそこら取片づけ塵を掃ふ。
暁方雨ふりしと覚しく、起出でゝ戸を開くに、庭の樹木には氷柱の下りしさま、水晶の珠をつらねたるが如し。午に至つて空晴る。蝋梅の花を裁り、雑司谷に徃き、先考の墓前に供ふ。音羽の街路泥濘最甚し。夜九穂子来訪。断膓亭屠蘇の用意なければ倶に牛門の旗亭に徃きて春酒を酌む。されど先考の忌日なればさすがに賤妓と戯るゝ心も出でず、早く家に帰る。
新福亭主人この日余の来るを待つ由。兼ての約束なれば寒風をいとはず赴きしに不在なり。さては兼ての約束も通一遍の世辞なりし歟。余生来偏屈にて物に義理がたく徃※(二の字点、1-2-22)馬鹿な目に逢ふことあり。倉皇車に乗つて家に帰る。此日寒気最甚しく街上殆人影を見ず。燈下に粥を煮、葡萄酒二三杯を傾け暖を取りて後机に対す。