野村 胡堂
銭形平次捕物控
一
新吉は眼の前が眞つ暗になるやうな心持でした。二年越言ひ交したお駒が、お爲ごかしの切れ話を持出して、泣いて頼む新吉の未練さを嘲けるやうに、プイと材木置場を離れて、宵暗の中に消え込んで了つたのです。
――父親が聽いてくれないから、末遂げて添ふ見込はない。出世前のお前さんに苦勞をさせるより、今のうちに切れた方が宜い――といふのは、十八や十九の若い娘の分別といふものでせうか。
――父親の不承知は今に始まつたことではない、版木彫りの下職に、何程の出世があらう――と詰め寄ると、お駒は唯もう父親の不承知一點張で、取付く島もないやうな冷たい顏をして、――これからは逢つても口を利いておくれでない、つまらない噂を立てられると、お互の爲にもならないから――そんな念入りな事まで言つて、美しいおもかげだけを殘して、一陣の薫風のやうに立去つたのでした。