野村 胡堂
銭形平次捕物控
一
錢形平次はお上の御用で甲府へ行つて留守、女房のお靜は久し振りに本所の叔母さんを訪ねて、
「しいちやんのは鬼の留守に洗濯ぢやなくて、淋しくなつてたまらないから、私のやうなものを思ひ出して來てくれたんだらう」などと、遠慮のないことを言はれながら、半日油を賣つた歸り途、東兩國の盛り場に差しかゝつたのは、かれこれ申刻(四時)近い時分でした。
平次と一緒になる前、一二年こゝの水茶屋で働いてゐたお靜は、兩國へ來ると――往來の人の顏にも兩側の店構へにも、いろ/\と古い記憶が蘇生ります。今の幸福さに比べて、それは決して甘い思ひ出ではなかつたにしても、その記憶の中に織込まれてゐる平次の若いおもかげや、今は行方も知れなくなつた多勢の朋輩達のことなどが、涙ぐましく懷しく思ひ出されるのです。