野村 胡堂
銭形平次捕物控
一
「フーム」
要屋の隱居山右衞門は、芝神明前のとある夜店の古道具屋の前に突つ立つたきり、暫くは唸つてをりました。
胸が大海の如く立ち騷いで、ボーツと眼が霞みますが、幾度眼を擦つて見直しても、正面の汚い臺の上に載せた茶碗が、運の惡い人は一生に一度見る機會さへないと言はれた井戸の名器で、しかも夜目ながら、息づくやうな見事さ。總體薄枇杷色で、春の曙を思はせる釉の流れ、わけても轆轤目の雄麗さに、要屋山右衞門、我を忘れて眺め入つたのも無理はありません。
野村 胡堂
一
「フーム」
要屋の隱居山右衞門は、芝神明前のとある夜店の古道具屋の前に突つ立つたきり、暫くは唸つてをりました。
胸が大海の如く立ち騷いで、ボーツと眼が霞みますが、幾度眼を擦つて見直しても、正面の汚い臺の上に載せた茶碗が、運の惡い人は一生に一度見る機會さへないと言はれた井戸の名器で、しかも夜目ながら、息づくやうな見事さ。總體薄枇杷色で、春の曙を思はせる釉の流れ、わけても轆轤目の雄麗さに、要屋山右衞門、我を忘れて眺め入つたのも無理はありません。