佐佐木 信綱
芳賀博士
龜原の木立のひまに夕日しづみ悲しくも君をはふりつるはや
これは、芳賀博士を音羽護國寺なる墓地に埋葬した日、遺族及び多くの知己門下の人々のかげに立つて、まむかひの雜司が谷龜原の冬木立の間に沈みはてた夕日を眺めつつ、心のうちに湧きおこつた感懷をさながらのべたのである。
廬山にあつて廬山を見ずといふ如く、多年親しく博士に接してをつた爲に、却つてその傑出した點を感じつつも、明確に考へるといふやうなことはなかつたが、今その遠逝にあうて、のこされた學問上の功績を思へば、博士が、明治の中葉以後に、新國學を樹立せられたことは、まさに江戸時代に於いて、荷田春滿が國學を建設したのと、その功相通うてをるものがある。
かくの如き博士は、また人格の上に於いても、現代稀に見る所であつて、よく後進を導き、情誼に厚かつた。博士の輪廓は、その名著國民性十論の中の論旨を、そのまま具體化した如き感がある。