正宗 白鳥

雨

杜若の蔭に金魚が動いてゐる。五月の雨は絶え間なく降つて居る。

私は帝國ホテルの廻廊の椅子に腰をおろして、玻璃越しに中庭を眺めてゐた。いろいろな刺戟から免れて心の閑かな時であつた。

私は下宿屋に於いても温泉に於いても、雨の降る日には屡々少年の頃、森田思軒の譯文で讀んだアーヴイングの小品「肥大紳士」を思ひ出したのであつたが、今日もそれを思ひ出した。

雨の日の旅館の侘しさに屈して居る男が、隣室の泊り客の氣六ヶしい言語擧動に耳を留めてゝどんな客かと怪しんで、「肥大紳士」たるその客の正體を、出立の間際に見つけるといふ、筋立てのさして面白くもない小品たるに過ぎなかつたが、どういふものか、私の幼な心に懷しく印象された。……「鷄が糞矢の側に、雨にしよぼぬれて餌をあさつてゐる」のを、所在なく見下ろしてゐる男は、壁一重隣りの客が、主婦をとげとげしく叱りつける聲を聞きつける。……そこに何となしに、旅の雨の侘しさを、私は感じたのであつた。

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