正宗 白鳥
素材
私は發表する當てのないのに物を書いたことはない。また材料を得るために旅行をしたり讀書したりしたことはない。雜誌などに頼まれて何か書かうとして机に向つて筆を採つてから、さて材料はどれにしようかと考へるのである。
さうすると、いろ/\な材料が頭に浮んで來る。幾十となく思ひ浮ぶ。生きてゐる限り材料の缺乏に苦しむことはない譯なのだ。自分自身の生涯については云ふまでもなく、肉親縁者の事、近隣の男女の事、ピン/\跳ねてゐるやうな生々した人生の姿が次から次へと眼前に浮んで、どれを捉へて來ようかと迷ふほどであるが、さていよ/\その一つを取つて、一篇の人生圖を描かうとすると駄目だ。二三行書くと、ぴたりと行き詰まつてしまふ。頭の中では生きてゐた者が萎びて、書き續けると死んでしまひさうになる。いゝ材料ほど六ヶしい。數十年の文學修業の甲斐のないのに何時も歎息される。
それで、例によつて例の如き型通りのものを、不承々々に書いて、書き上げたあとで、作者自身詰まらない思ひをして、依頼者や讀者に對して氣の毒な思ひがするのである。今度も「文藝日本」の依頼を、今日中に果たさうとして、朝から齷齪してゐるのだが、材料に迷ふばかりで、題目とペンネームとだけを書いては棄て/\して時を過してゐた。書けないから、何時ものくせで、寢ころんで手あたり次第に本を讀んだり雜誌を讀んだりした。
チエホフなら、あゝいふちよつとした事でも、面白い小品に纏めるのだらうなと、汚れた天井を仰ぎながら、私は旅中のある光景を思ひ出した。