徳田 秋声

閾

その日も土井は町へ牡蠣雑炊を食べに行つた。京都へ来てから、思ひのほか日がたつてゐたので、彼はもうそろ/\帰り支度をしてゐた。六兵衛だとか、ゑり正だとか、そんな老舗へも立寄つて、少しばかりの土産物を買ひ調へてゐた。甥が西陣の織物屋を知つてゐるので、反物も少し心がけたりしてゐた。十二月も早や押し詰つて、余すところ幾日もなかつた。

彼は立寄つたついでに、もつと行つて見たいところが、まだ沢山あつた。食べに行きたいところも多かつた。しかし今度の旅は遊びが目的ではなかつた。たゞ大阪の兄が危篤だといふ電報に接して、見舞ひ或ひは永訣――その孰になるかは、東京を立つた時の彼には判らなかつた――のために大阪へ来たついでに、甥にさそはれて立寄つたのを機会に、しばらく逗留したまでであつた。若し遊覧のためなら、何もわざ/\特別に底冷えがすると言はれてゐる京都の冬を見舞ふ理由はなかつた。しかし京都の冬は思つたより好かつた。少くとも今迄二三度見舞つた暖かい季節の京都よりも、冬の京都に京都らしい特色があつた。実際京都の冬は冬らしい静かな冬であつた。それが土井には懐かしかつた。それは彼の足を止めたところが郊外にあつたからで、そこは平野神社から銀閣寺へ行く途中に見える衣笠山の夷かな姿が直ぐ簷の下から望まれるやうな場所にある、貧しい家であつた。

土井は最初そこへ着いた晩、筆を執るやうな落着きがないのに、ちよつと失望したが、家主の住つてゐる家の離れを一室借りておいたからと、甥が言ふので、彼はそれを信じて、暫く滞在してゐた大阪の人達と、強ひて袂を分つて、お寺から直ぐに梅田へ向つたのであつた。土井は京都へついてからも、何

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