徳田 秋声
彷徨へる
芸術論や人生論をやる場合にも劣らぬ否寧ろそれよりも※(「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55)かに主観的に情熱の高まつて来るのは、彼が先輩G――の愛人I子の噂をする時の態度であつたが、その晩彼は彼自身の恋愛的事件について、仄かな暗示をG――に与へたのであつた。G――はI子とちよつと遠ざかつてゐるやうな場合に、I子に関して、共鳴を惜しまない、彼と語るのが一つの慰安であり救ひであつた。彼とはG――の最も愛してゐる武村青年であつた。彼は真摯で芸術的才能に恵まれてゐたが、往々コーヒ代や電車賃にも窮してゐた。それは彼が芸術的矜持とプロレタリア精神とを失つてゐなかつたからであつた。
その時も感激的にI子讃美論のはづんだあとで、卒然として武村は眉を昂げながら、彼にはちよつと珍らしい女性との接近について、謙遜した態度で語りだした。
「ぢや女給ぢやないんだね。」
「先生にまでお話してもいゝと思ひますが、I子さんには何うか秘密に。」