徳田 秋声
歯痛
M―市を通つてA―温泉へ着いたのは、もう夜であつた。
今年は殊に万遍なく暑さの続いた夏の半以上を東京で過した融は、愛子同伴で、次男の養子問題についての用件を帯び旁々三四日の予定で、山の空気を吸ひにS―湖畔の親類を訪ねた帰りを、彼は煤烟に悩まされ通しの、中央線を避けて、途中どこかへ寄つて別の方面から帰るつもりで、交通の便利のいゝA―温泉へと立寄ることにしたのであつた。彼がその温泉を見るのは六七年目であつた。格別気に入つてゐた訳ではなかつたけれど、死んだ娘を旅へ連れ出したのは、その温泉より外にはなかつたので、何んとはなし心を惹かれるのであつた。
「ほんの遊散場に過ぎないんだけれど、割合色々な人が行つてゐるんだ。」融はM―市を通過しつゝある自動車のなかでそんな話をした。
わづか三四日の旅行なので、成るべく有効に使ひたいと思つたし、この山国には行つて見たい処が沢山あつたけれど、結局そんな平凡な処へ落著くより外なかつた。子供達を海岸へやつてある関係から、東京を長く離れることは許されなかつた。