中原 中也

近時詩壇寸感

詩論か何かさういつた風のものを書けと云はれるたびに、書くことはいくらでもあるやうな気持と、書くことは何にもないやうな気持に襲はれます。さて暫く案じた揚句、大抵はお断りすることとなるのでありますが、今もよつぽどお断りしようかと思つた所でありました。

人によつて色々異ることと思ひますが、私は詩に就いては自分に分るやうにだけは考へますが、それを人に分らせようとするや大変骨が折れます。而も骨を折つた結果は、大抵の場合自分は気拙くなり、相手には殆んど役に立たないやうな次第です。これは、一つには私が今迄に、詩人である人と余りおつきあひして来なかつたといふことに過ぎないのかも知れません。もし相手がやはり詩人である場合は、随分容易に話が通じ、又互ひに利するのかも知れませんが、今の所私は、詩論といふものは殆んど無益だと諦め切つてゐる有様です。

色々と詩論は毎月の雑誌にも現れてをりますが、此の雑誌に訳載中のアランの論文と、それからこれは直ちに詩論と呼べる限りのものではありませんが、フィードレルの芸術論、まづまづ此の二つが此の数年来に読みました詩論の中で心に残つたものであります。あとは、殆んど心に残つてをりません。超現実派の詩論なぞも読んでをりますが、そして所々非常な卓見にも遭遇しますが、要するに読んだ後では「今時誰も結論には到達しないのだ」といふ何時も乍らの呟きを繰返さなければならない始末です。尤も、新精神の、精神してゐる所はよく分るつもりであります。一言で云へば、必竟偶然を排し詩を判然と人間の意識の手中に収めたいといふ精神と云ふことが出来るかと思ひますが、それが判然と実現出来れば、全く喜ばしいこ

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