樋口 一葉
暁月夜
第一回櫻の花に梅が香とめて柳の枝にさく姿と、聞くばかりも床しきを心にくき獨りずみの噂、たつ名みやび男の心を動かして、山の井のみづに浮岩るヽ戀もありけり、花櫻香山家ときこえしは門表の從三位よむまでもなく、同族中に其人ありと知られて、行く水のながれ清き江戸川の西べりに、和洋の家づくり美は極めねど、行く人の足を止むる庭木のさまざま、翠色したヽる松にまじりて紅葉のあるお邸と問へば、中の橋のはし板とヾろくばかり、扨も人の知るは夫のみならで、一重と呼ばるヽ令孃の美色、姉に妹に數多き同胞をこして肩ぬひ揚げの幼なだちより、いで若紫ゆく末はと寄する心の人々も多かりしが、空しく二八の春もすぎて今歳廿のいたづら臥、何ごとぞ飽くまで優しき孝行のこヽろに似す、父君母君が苦勞の種の嫁いりの相談かけ給ふごとに、我まヽながら私し一生ひとり住みの願ひあり、仰せに背くは罪ふかけれど、是ればかりはと子細もなく、千扁一律いやいやを徹して、はては世上に忌はしき名を謠はれながら、狹き乙名の氣にもかけず、更けゆく歳を惜しみもせず、靜かに月花をたのしんで、態とにあらねど浮世の風に近づかねば、慈善會に袖ひかれたき願ひも叶はず、園遊會に物いひなれん頼みもなくて、いとヾ高嶺の花ごヽろに苦るしむ人多しと聞きしが、牛込ちかくに下宿住居する森野敏とよぶ文學書生、いかなる風や誘ひけん、果放なき便りに令孃のうはさ耳にして、可笑しき奴と笑つて聞きしが、その獨栖の理由、我れ人ともに分らぬ處何ゆゑか探りたく、何ともして其女一目見たし、否見たしでは無く見てくれん、世は冠せ物の滅金をも、秘佛と唱へて御戸帳の奧ぶかに信を増さするならひ、朝日かげ玉だれの