岸田 劉生
新古細句銀座通
おもいで(一)
私は明治二十四年に銀座の二丁目十一番地、丁度今の服部時計店のところで生れて、鉄道馬車の鈴の音を聞きながら、青年時代までそこで育って来た。だから銀座のうつりかわりは割合にずっと見て来ている訳であるが、しかし正確なことはもとよりわからない。が、「煉瓦」と呼ばれた、東京唯一の歩道時代からのいろ/\のうつりかわりにはまた語るべきことも多い様である。いろいろの思い出やら、変り行く世の姿から思い起す批評などとりとめもなくかいてみようと思う。
御承知の方々も多いと思うが私の生家は目薬の精※(「金+奇」、第3水準1-93-23)水の本舗であって、岸田の楽善堂というよりも精※(「金+奇」、第3水準1-93-23)水といった方が通る位の店であった。父(吟香)の道楽から店を半分に切って一方を薬房、一方を書房とし、書房では支那の筆墨硯紙その他文房具風のものや、書籍などを売っていた。唐紙の様な紙を太くこよりの様にしたのに火をつけ、フッと吹くと、ポッと燃えフッと吹くと消えるという様なものがあったりして、面白がってそれをやって遊んだこともある。よく支那人が買いに来ていて番頭さんが片言で「鎮座々々」なんどとやっていた。王テキサイ(字不明)という片腕ない支那人が父のところへよく来たが、これは馬車に腕をひかれたのだとか、多分品物を売り込みに来たものであろう。何しろ日清戦争のじき後のこととて、王テキサイという名が大きな敵の様な気が子供心にして反感を持っていたことなど思い出す。
私の家の隣には勧工場があって私たち兄弟たちは毎日の様にそこへ行った。何でも私の家の家作であって、南谷という人がやっていた。南