森 鴎外
蛇
明け易い夏の夜に、なんだってこんなそうぞうしい家に泊り合わせたことかと思って、己はうるさく頬のあたりに飛んで来る蚊を逐いながら、二間の縁側から、せせこましく石を据えて、いろいろな木を植え込んである奥の小庭を、ぼんやり眺めている。
座布団の傍に蚊遣の土器が置いてあって、青い烟が器に穿ってある穴から、絶えず立ち昇って、風のない縁側で渦巻いて、身のまわりを繞っているのに、蚊がうるさく顔へ来る。夕飯の饌に附けてあった、厭な酒を二三杯飲んだので、息が酒の香がするからだろうかと思う。飲まなければ好かったに、咽が乾いていたもんだから、つい飲んだのを後悔する。
ここまで案内をせられたとき、通った間数を見ても、由緒のありげな、その割に人けの少い、大きな家の幾間かを隔てて、女ののべつにしゃべっている声が、少しもと切れずに聞えているのである。
恐ろしく早言で、詞は聞き取れない。土地の訛りの、にいと云う弖爾波が、数珠の数取りの珠のように、単調にしゃべっている詞の間々に、はっきりと聞こえる。東京で、ねえと云うところである。ここは信州の山の中のある駅である。