中原 中也

撫でられた象

様々な議論が沸騰してゐるけれど、それらの何れもはや議論といふよりは彷徨、それも随分無責任な、身入りのしないことにしか過ぎない。かくて人々は、それを時代のせゐに帰したりするのだが、それとて十分の根拠を有することでもない。

現代は不安な時代であらうか? それはさうでもあらう。然るに文学者達が斯くも自信を失つてゐるのは強ちそのせゐであらうか?――然し、事象は歴史を織りなして行くであらうが、歴史が事象を織りなしてゆくとは冠履転倒のことであるから、時代なぞといふ方から文学を考へるよりも、文学者自体の実状を反省してみることは却て賢明なことであらう。

扨、さういふことにすれば、現今文学者が彷徨してゐるといふことも、私には案外簡単なことに思へて来る。

それは我々の前には近々七十年以前に、急劇にも西洋文学といふ、目新らしい様式の文学がドヤドヤ現れて来たといふことであり、それの消化は未だ甚だ不十分であるといふことである。何だ、そんなことかと諸君は云はれるでもあらうが、まあまあ鳥渡待つて下さい。人々はドストエフスキーを読みバルザックを読み、※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルレーヌを読むが、そして面白いといふのであるが、果してそれらの「流れ」、つまり持続を面白いといつてゐるのであらうか、それとも部分々々を面白いと思つたものであらうか? 恐らく後者だと私は思ふ。かくて象の鼻を撫でた人は細いといひ象の胴を撫でた人は太いと云つてゐるのと同断で、何もそれは象のことを云つてゐるのではないのである。扨、象のことを知らないで、象の部分を知つたことを以て、何かおぼろに感じた象のことを言表はさうとするやどんなことに

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