岡本 綺堂
小夜の中山夜啼石
秋の末である。遠江国日坂の宿に近い小夜の中山街道の茶店へ、ひとりの女が飴を買ひに来た。
茶店といつても型ばかりのもので、大きい榎の下で差掛け同様の店をこしらへて、往来の旅人を休ませてゐた。店には秋らしい柿や栗がならべてあつた。そのほかにはこの土地の名物といふ飴を売つてゐた。秋も深けて、この頃の日脚はだん/\に詰まつて来たので、亭主はもうそろ/\と店を仕舞はうかと思つたが、また躊躇した。
『あのおかみさんがまだ来ない。』
きのふまで五日のあひだ、毎日おなじ時刻に飴を買ひにくる女がある。それが今日はまだ来ないことを思ひ出して、亭主はすこし躊躇したのであつた。その女はいつも暮れかゝつた頃に来て、たつた一文の飴を買つてゆくのである。勿論、今日とは違つて、その昔は一文の飴を買ふのもめづらしくないが、所詮一文は一文であるから、それを売ると売らないとが一日の収入の上、左ほどの影響のないのは、亭主にもよく判つてゐたが、彼はその女の来ないうちに店を仕舞ふ気になれなかつた。