吉川 英治
日本名婦伝
一
暁からの本能寺の煙が、まだ太陽の面に墨を流しているうちに、凶乱の張本人、光秀の名と、信長の死は、極度な人心の愕きに作用されて、かなり遠方まで、国々の耳をつらぬいて行った。わけても、勝龍寺の城などは、事変の中心地から、馬なら一鞭で来られる山城国乙訓郡にあるので、桂川の水が、白々と朝を描き出した頃には、もう悍馬を城門に捨てた早打ちの者が、
「たいへんだっ」
と、人の顔を見るなり誰にでも呶鳴って、やがて転ぶが如く、奥曲輪のほうへ馳けこんでいた。
吉川 英治
一
暁からの本能寺の煙が、まだ太陽の面に墨を流しているうちに、凶乱の張本人、光秀の名と、信長の死は、極度な人心の愕きに作用されて、かなり遠方まで、国々の耳をつらぬいて行った。わけても、勝龍寺の城などは、事変の中心地から、馬なら一鞭で来られる山城国乙訓郡にあるので、桂川の水が、白々と朝を描き出した頃には、もう悍馬を城門に捨てた早打ちの者が、
「たいへんだっ」
と、人の顔を見るなり誰にでも呶鳴って、やがて転ぶが如く、奥曲輪のほうへ馳けこんでいた。