伊藤 左千夫

箸

一

朝霧がうすらいでくる。庭の槐からかすかに日光がもれる。主人は巻きたばこをくゆらしながら、障子をあけ放して庭をながめている。槐の下の大きな水鉢には、すいれんが水面にすきまもないくらい、丸い葉を浮けて花が一輪咲いてる。うす紅というよりは、そのうす紅色が、いっそう細かに溶解して、ただうすら赤いにおいといったような淡あわしい花である。主人は、花に見とれてうつつなくながめいっている。

庭の木戸をおして細君が顔をだした。細君は年三十五、六、色の浅黒い、顔がまえのしっかりとした、気むつかしそうな人である。

「ねいあなた、大島の若衆が乳しぼりをつれてきてくれましたがね」

青空文庫の作品カード