三好 達治
棋家の文章など
棋客の前田陳爾さんに近づきはないが、その囲碁批評はいつも面白く拝見してゐる。なかなかの文章家で、評語は私どもには高遠にすぎることがたいていのやうだが、読ものとして面白く拝見するのを常としてゐる。同じ棋客の向井一男さんなんかも名文家のやうである。故人の久保松機山なんかも、これはもう一そう文章家であつたかも知れない。一芸に秀でた人物必ずしも筆がたつとは限らないが、一つことに精根をつくしたこれらの人々の文章には、どこやら用意と反省の行とどいた跡がほのみえ、文筆家といふではなくとも――それだからさらりとしてゐて、その風味の格別なのが好ましくうけとられる。
売文家の文章はそれはそれなりにまた格別の用意を蔵してゐて、それも結構といつておくより外はないけれども、詩家の詩書家の書好ましからず、と良寛さまもいはれたやうに、鼻につくことがないでもない。糊口家業はしがないもので、いたしかたのないことかと領解される。
するとまた、書家の書好ましからず、と墨象一派の新書道家がご都合よろしくこれを楯にとらうとする。それはひどいよと、先日も私はひとり呟きすてたが。
ラヂオなどで聞く政治家の演舌俳優の口跡、いづれも腑に落ちかねるものが多い。唐突な比較だが、いつぞや白洲正子さんもそれをいつてゐられたやうに、相撲放送の解説者はまことに好ましい音声を聞かしてくれる。力技者らしい風格の発声で、解説も自信に満ちてゐる。大山親方は模倣のできない声を出すし、神風さんは私にとつては郷音でなつかしい。私は場所になつてそれを聞くのを消閑の楽しみとしてゐる。