横光 利一
欧洲紀行
二月二十二日[注・昭和十一年]家人への手紙 一
今さき門司を出た。疲れているので手紙を書く気もしない。船のなかは馴れると楽だが頭がぼんやりして眠る前のようだ。温かく上衣を脱ぎたいほどだが、うっかり手紙をサロンで書いていると、突然日本海から隙間風が来て咳が出る。まだ風邪が癒らないのだと思う。あわてて隙間風のこない所へ逃げてまたペンを持つ。
これから出す手紙は保存しておいてほしい。その時、思ったことを書きつけておくのは手紙に限る。僕が持っていると失って了うおそれがあるから番号でも書いて保存しておいてほしい。但し何も書かないことだろうと思うが、船中の心理の移動、自然の変化と自分の気持ちを後で引きくらべてみたいと思うから。
昨夜事務長が、七つの男の子がロンドンから日本までお婆さんを慕って一人で帰った話をした。それも自分からどうしても一人で帰るといってきかないのでロンドンの親達も困って一人で帰らしたとのことだ。何処やらの日本婦人が世界を廻って帰って来て、横浜まで船が入ると、どぶんと海へとびこんで死んだという話もきいた。