伊藤 野枝
人間と云ふ意識
十月号掲載の岩野清子氏の「個人主義と家庭」と云ふ論文を読んで私は或る点については全く私の考へ方と同一であるのを見出したけれど他の方面に於いて私の考へてゐるのとは可なりに違つてゐることにおどろいた。そうして私はらいてう氏の感想を読んだ。氏の云つてゐられることはまあ私の云はうとしてゐることである。私はだからそのことについては黙つてゐやうと思つたけれど矢張り満足が出来ないので書くことにした。然し私は岩野氏の思想について云々するよりも多く自分の考へについて云ひ度いと思ふ。また実際私は他人の思想に立ち入ることは好まないから。たゞそれに依りて考へさゝれた私の感想を述べやうとするのである。私の考へてゐることゝ岩野氏の思想の何の点に相違があるかは読む人の判断にまかせる。私はたゞ岩野氏の論文によつて考へさゝれた事で云ひたいこと丈けを云ふ。
私は如何なる場合ひにも自分の考へてゐる事に対象を置き度くない。それは今の私たちの生活ではむづかしいことではあるけれど。否むしろむづかしいと云ふよりも夢想であるかもしれない。考へてゐることが外面的に表はれたときにはどうしても何かの対象が現はれないでは済まないけれどもその発想に何の対象も有しないと云ふことはうれしい事である。
私は常に他人との接触に何時も幼い時から私についてまはつてゐる習俗的なあるものが殆んど絶えずつきまとつて私を苦しめる。私はこの頃それがだん/\深味へ入つて来たことを意識してゐる。それは重に家族との交渉である。私の所謂姑と小姑とその夫たちと私の或る間接な関係から必然に起つて来る接触である。明らさまに云へば私の今なやんでゐる問題はそれである。この家