中村 憲吉

備後より

この峡に帰ると急に強く秋らしい日光の光線が感じられて、最初は稍物寂しく思つたが今は慣れるに従つて却つて真実に心が落著いて来た様である。山峡の秋はこれから愈々深んで行く計りだ。早稲ももうぼつぼつと刈り始められて居る。この刈跡が漸次峡底に増加えて行くといやはてには人目も草も枯れはてる寂しい冬が来るのである。それにしても自然の推移の早いに驚かざるを得ない。帰省した頃は僕の裏田にまだ稲穂が色薄くその重い姿体を保つて居たが、今日見れば全く熟れて仆れて田一面にしどろに乱れて居る。常よりも田面が目に一段低まつて見える訳である。而して仆れた稲の間からは地が露はに透いて見え中には青草の生えて居る所もある。水を落してから既に幾十日にもなるからだ。灌漑用の小川にも水が減つて岸が高くなつて居る。併しそこには野菊や紅蓼が一杯に咲いて居るのでまだ目を悦ばすことが出来る。すべてこんな花でもこの峡の中では懐しい花なのである。実を云へば僕の村では秋の中頃は却つて世間が生々として生活の豊富な感のされる時である。田のもの畑のもの山のもの、柿、栗、蕈、その他の木の実、僕の村では自然物の収穫物は殆ど挙げて秋期の種類のものに限られて居ると云つても好い。香茸などは最も豊富で今が盛りの様だ。それから村祭が所々であり出す。あの谷の里、この峡の部落部落で小さな賑騒が聞える。哀れな程である。その里の氏神祭も近づいて居るから太鼓のならしの撥音が毎夜毎夜響いて居る。これから酒がよく売れ出す。酒屋で貸樽の準備と小銭の保存が必要になつて来る。通俗に満作と云ふ塩魚が村に沢山這入つて来だした。これはこの近在では百姓の祭魚になつて居る魚である。

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