中谷 宇吉郎
海底の散歩
今日の地球上で、人間の生活と縁が近いようで、その実いちばんかけはなれた世界は、水中の世界、すなわち水界である。虫も鳥も獣も人間も、空気中に住んでいる以上、それらは気界の生物である。
水中の世界は、まったく別の世界である。われわれは魚と海藻、それに各種の海中動物の知識、それだけでもって、水界の景観を描きだしている。しかしその姿は、いわば頭の中で作りだされたもので、実際の海底の景観は、水中に潜って見なければ、実感をもって体験することはできない。行動の世界は思惟をもって律することができないのと同様である。
八月十七日。忍路丸は熱海の沖合、ビダガネ岩礁の上に、さっきからずっと碇泊している。気づかわれた台風は、北西にそれたらしく、海はきわめて静かである。しかし台風の影響を受けて、うねりは少しある。海水はそのためにいくぶん濁り気味で、前日の透明度十一メートルが、今日は六メートルに減っている。きのうまで紺碧であった海水が、今日は少し白味を帯びて、青磁色がかって見える。
まず無人テスト。つぎに設計者緒明氏たちの潜水。ともになんら異状が認められない。緒明氏と同乗した佐々木博士は、刻々に状況を電話で伝えてくる。海水は濁っていて、何も見えないが、機内はきわめて快適な状態にある。という嬉しそうな声である。