中谷 宇吉郎
『団栗』のことなど
今度岩波文庫に『寺田寅彦随筆集』の第一巻が出た。小宮さんの編輯によるもので、全部で五巻のうちの第一巻が出たのである。
その巻頭に『団栗』が載っている。全集第一巻とくらべてみると、執筆年代順からかぞえて、初めの十一篇が略され、十二番目の『団栗』が最初にとりあげられている。もちろん文芸的の価値からいっても、この『団栗』と次の『竜舌蘭』とは、先生の作品の中でも、特に高く評価さるべきものである。しかしそのことの外に、この『団栗』は深い意味のある作品であって、これが今度の集の巻頭に載ったことについては、小宮さんの寅彦に対する心持がしのばれるように、私たちには思われる。
『団栗』は、明治三十八年、漱石の『猫』が初めて『ホトトギス』に連載され始めた年の四月、同じく『ホトトギス』に発表された短篇である。早く亡くなられた先生の最初の奥さんのことを書かれたものである。
「暮もおし詰つた二十六日の晩、妻は下女を連れて下谷摩利支天の縁日へ出掛けた。十時過に帰つて来て、袂からおみやげの金鍔と焼栗を出して余のノートを読んで居る机の隅へそつとのせて、便所へはいつたがやがて出て来て蒼い顔をして机の側へ坐ると同時に急に咳をして血を吐いた。驚いたのは当人ばかりではない。其時余の顔に全く血の気が無くなつたのを見て、一層気を落したと此れはあとで話した。」