谷崎 潤一郎
人魚の嘆き
むかし/\、まだ愛親覚羅氏の王朝が、六月の牡丹のやうに栄え耀いて居た時分、支那の大都の南京に孟世※(「壽/れんが」、第3水準1-87-65)と云ふ、うら若い貴公子が住んで居ました。此の貴公子の父なる人は、一と頃北京の朝廷に仕へて、乾隆の帝のおん覚えめでたく、人の羨むやうな手柄を著はす代りには、人から擯斥されるやうな巨万の富をも拵へて、一人息子の世※(「壽/れんが」、第3水準1-87-65)が幼い折に、此の世を去つてしまひました。すると間もなく、貴公子の母なる人も父の跡を追うたので、取り残された孤児の世※(「壽/れんが」、第3水準1-87-65)は、自然と山のやうな金銀財宝を、独り占めにする身の上となつたのです。
年が若くて、金があつて、おまけに由緒ある家門の誉を受け継いだ彼は、もう其れだけでも充分仕合はせな人間でした。然るに仕合はせは其れのみならず、世にも珍しい美貌と才智とが、此の貴公子の顔と心とに恵まれて居たのです。彼の持つて居る夥しい貲財や、秀麗な眉目や、明敏な頭脳や、其れ等の特長の一つを取つて比べても、南京中の青年のうちで、彼の仕合はせに匹敵する者は居ませんでした。彼を相手に豪奢な遊びを競ひ合ひ、教坊の美妓を奪ひ合ひ、詩文の優劣を争ふ男は、誰も彼も悉く打ち負かされてしまひました。さうして南京に有りと有らゆる、煙花城中の婦女の願ひは、たとへ一と月半月なりと、あの美しい貴公子を自分の情人にする事でした。
世※(「壽/れんが」、第3水準1-87-65)は、斯う云ふ境遇に身を委ねて、漸く総角の除れた頃から、いつとはなしに遊里の酒を飲み初め、其の時分の言葉で云ふ、窃玉偸香の味を覚え