谷崎 潤一郎
細雪
一
幸子は去年黄疸を患ってから、ときどき白眼の色を気にして鏡を覗き込む癖がついたが、あれから一年目で、今年も庭の平戸の花が盛りの時期を通り越して、よごれて来る季節になっていた。或る日彼女は所在なさに、例年のように葭簀張りの日覆いの出来たテラスの下で白樺の椅子にかけながら、夕暮近い前栽の初夏の景色を眺めていたが、ふと、去年夫に白眼の黄色いのを発見されたのがちょうど今頃であったことを思い出すと、そのまま下りて行って、あの時夫がしたように平戸の花のよごれたのを一つ一つ毟り始めた。彼女のつもりでは、夫がこの花のよごれたのを見るのが嫌いなので、もう一時間もしたら帰宅する筈のその人の眼を喜ばすために、庭先を綺麗にしておきたかったのであるが、ものの三十分もそうしていると、うしろに庭下駄の音が聞えて、へんに取り済ました顔つきをしたお春が、手に名刺を持ちながら飛び石を伝わって来た。
「この方が、御寮人様にお目に懸りたい仰っしゃっていらっしゃいます」
見ると、奥畑の名刺であった。―――たしか、一昨年の春であったか、一度この青年が来訪したことはあったけれども、平素出入りを許している訳ではないし、女中達などの前ではその名を云うことさえ控えているくらいなのであるが、お春のこう云う取り済まし方は、明かにあの新聞の事件を知り、この青年と妙子との関係を察していて、気を廻しているものに違いなかった。