山本 周五郎
青竹
一
慶長六年の夏のはじめ、近畿地方の巡察を命ぜられた本多平八郎忠勝は任をはたした帰途、近江のくに佐和山城に井伊直政をたずねて数日滞在した。ふたりは徳川家のはたもとで酒井榊原とともに四将とよばれ、いく戦陣ともに馬をならべて戦ってきたあいだがらである。一日は琵琶湖に舟をうかべて暮し、あくる日は伊吹の山すそで猪狩りをした、また鈴鹿の山へ遠駆けをして野営のいち夜にむかしを偲んだりもした。心たのしく、こうして四五日をすごしたのちいよいよ明日しゅったつというまえの夜だった。城中で催された別れの宴がようやくさかんになりはじめたとき、忠勝がふと思いだしたというようすで、
「関ヶ原のおりに島津軍の阿多ぶんごを討ちとめた若者はこの席に出ているか」とたずねた。直政はちょっと返辞ができなかった、忠勝のいうその若者が誰だかわからないからである、それでかれは話題をはずして答えた、「阿多豊後という名を聞くと島津惟新を討ちもらしたことを思いだす、もう一歩というところだった、まことおれのこの手で入道の衿がみをもつかむところだった」「まったく、おぬしとはずいぶん戦塵をあびてきたが、あれほどすさまじい合戦はみかたが原いらいであろう」話は関ヶ原のことに集った。
慶長五年九月十五日午後一時、金吾中納言ひであきのねがえり反撃によって石田三成の陣は総くずれとなり、午前四時からはじまった合戦はそのときまさに徳川軍の勝ち目を決定した。ほとんど乱戦となった戦場の一角で、本多忠勝と井伊直政とは僅かな手兵のせんとうに馬を駆り、島津惟新義弘の軍へきびしくきりこんでいた。敗勢になりながら、島津の兵はじつによく戦った、しかしいかに善防した